vol.9

スポーツ文化評論家 玉木 正之(たまき まさゆき)

プロフィール

1952年京都市生。東京大学教養学部中退。在籍中よりスポーツ、音楽、演劇、 映画に関する評論執筆活動を開始。小説も発表。『京都祇園遁走曲』はNHKでドラマ化。静岡文化芸術大学、石巻専修大学、日本福祉大学で客員教授、神奈川大学、立教大学大学院、筑波大学大学院で非常勤講師を務める。主著は『スポーツとは何か』『ベートーヴェンの交響曲』『マーラーの交響曲』(講談社現代新書)『彼らの奇蹟-傑作スポーツ・アンソロジー』『9回裏2死満塁-素晴らしき日本野球』(新潮文庫)など。2018年9月に最新刊R・ホワイティング著『ふたつのオリンピック』(KADOKAWA)を翻訳出版。TBS『ひるおび!』テレビ朝日『ワイドスクランブル』BSフジ『プライム・ニュース』フジテレビ『グッディ!』NHK『ニュース深読み』など数多くのテレビ・ラジオの番組でコメンテイターも務めるほか、毎週月曜午後5-6時ネットTV『ニューズ・オプエド』のMCを務める。2020年2月末に最新刊『今こそ「スポーツとは何か?」を考えてみよう!』(春陽堂)を出版。
公式ホームページは『Camerata de Tamaki(カメラータ・ディ・タマキ)

東京五輪マラソン札幌開催と周回コースの設定は、 「サブ2(2時間切り)」の驚異的大記録を期待してるから?

オリンピック・イヤーの2020年が幕を開けた―とはいえ、少々スッキリしないのは昨年末、IOC(国際オリンピック委員会)が急遽決定したマラソン・競歩の札幌移転の問題だ。

 

昨年10月にカタールのドーハで行われた世界陸上で、マラソンと競歩が深夜に行われたにもかかわらず、気温30度湿度70%を超す環境で、多数の選手が(特に女子マラソンでは40%近い選手が)途中棄権。

 

このニュースが飛び込んできたときは、何を今さら!というのが正直な感想だった。

 

これにショックを受けたIOCバッハ会長は、同様の高温多湿が予想される東京でのマラソンと競歩を、「選手ファースト」の観点から、平均気温で5~6度下回る札幌に移すことに決めた。

 

東京五輪の開幕日のちょうど2年前、東京は観測史上最高の40.8度を記録。その時点での変更だったなら、まだチケットも販売されおらず、準備期間も十分にあったはずだ。

 

もちろん、今更そんなことを言っても仕方ないが、その後の札幌でのマラソン・コースの設定でのIOCおよびIAAF(国際陸上競技連盟)と、TOCOG(東京五輪組織委員会)およびJAAF(日本陸上競技連盟)の「対立」を見ていると、マラソンと競歩の札幌移転問題は、単なる「会場移転問題」ではないことがわかった。これはマラソン競技に対する根本理念の変更を伴う問題なのだ。

IAAFは札幌市内の同じコースを6~7周する「周回コース」を主張。これに対してTOCOGはハーフマラソンのコースを2周するコースを主張した。両者が基本的に周回コースを軸に考えたのは、警備がやりやすく、経費も大幅に削減できるからというもの。

 

また、日本では人気競技のマラソンも、欧米ではさほど人気のあるものでなく、短い距離を何周もする周回コースのほうが観客が集まりやすく、見た目(テレビ映り)にも盛況に見えるとIAAFは考えたようだ。

 

それに対してTOCOGとJAAFは、日本のマラソン人気を考えると、そんな心配は無用と主張したが、IOCとIAAFが周回コースを主張したのには、さらに別の意味があった。

 

世界的にあまり人気のないマラソンが、世界の注目を集めるためには、どうすれば良いか? それは、超人的で驚異的な世界最高記録が生み出されることだ。

 

いま男子マラソンの世界最高記録は、ケニアのエウリド・キプチョゲ選手が2018年9月のベルリン・マラソンでマークした2時間1分39秒。あとほんの少しで「世界的大ニュース」となる「1時間台」に突入できるのだ。

 

その大記録に迫り、2時間5分を切っている選手も、世界では49人もいる(2019年10月末現在)。そのうち29人がエチオピアの選手で、19人がケニアの選手(残る1人はバーレーン国籍)と、アフリカの高地民族に独占されているのも、マラソンの世界的人気が低迷している一因かもしれないが、そこで人気回復策の切り札として期待されているのが、「2時間切り(サブ2)の大記録」の出現なのだ。

 

実際、現在世界最高記録保持者であるキプチョゲ選手は2019年10月12日、オーストリアの首都ウィーンのプラーター公園に創られた特設レース会場で、1時間59分40秒2の非公認世界最高記録をマークした。が、これがなぜ非公認かというと、キプチョゲ選手は平坦な大きなカーヴしかないコースで、スピードを一定に保って先導する電気自動車のあとを、ペースメーカーとも風よけともなって交代して走る41人の選手の補助を受け、ペースのリズムをレーザー光線で地面に照射する機械まで使って走ったからだった。

 

とはいえ、人間が2時間を切るタイムで42.195㎞を走り抜けたことは事実であり、環境さえ整えば「サブ2」は可能で、その瞬間が目の前に迫っていることが証明されたのだ。

 

この「サブ2」の非公認レースは、もちろんスポンサーがついた賞金レースとして企画されたが、もしもオリンピックで「サブ2」が生まれれば、マラソン人気が爆発するだけでなく、開催に名乗りをあげる都市がなくなるほど人気低迷のオリンピックというイベントも、一気に息を吹き返すかも……。

 

しかも現在の世界の一流マラソン・ランナーは、靴メーカーなど様々なスポンサーと個別契約を結び、世界最高記録を出したときのボーナスを決めていることが多い。

 

そこで、高温多湿の環境は避け、アップダウンが少なく、走りやすいコースの同じ場所を何度も(走り慣れて)走るほうが好タイムにつながって、誰もが満足……というわけで、かつてアテネがペルシア戦争を闘ったとき、マラトンの戦いでの勝利を告げるため、長距離を一直線に走ってアテネまで帰ったエウクレスという兵士の故事から生まれたマラソンという競技だが、賞金のかかるタイムレースと化した現代のマラソンでは、ある場所からある場所へと何か(情報)を伝える意義はなくなり、ただただ「速さ」を競うことを優先させる方向へと変化した、というわけだ。

 

東京で行われる予定だったマラソン・コースでは、雷門やスカイツリー、銀座や東京タワーや皇居を見ながら選手たちが走り抜け、世界に東京の街並みをPRする絶好の機会となるはずだった。それが札幌に変わったら、今度は札幌の街並みを……2度目の冬季五輪開催を目指す札幌を世界に紹介……と考えた人も多かっただろう。が、「世界的に人気のないマラソンという競技」を行わなければならないIOCとIAAFは、世界最高記録……とまでは言わないまでも、好記録の出現で一気に人気を……と期待を寄せているようだ。

 

しかし東京(札幌)の次の4年後のパリは2019年7月25日に42.6度の観測史上最高の気温を記録。続くロサンゼルスは、まだ地球温暖化が騒がれてなかった1984年の前回大会でも熱中症で倒れる選手が続出。そろそろオリンピックの夏開催に終止符を打たないと、オリンピックそのものが「途中棄権」ということいなりそうな気配だ。

(Up&Coming '20 新年号掲載)