Vol.

19

スポーツ文化評論家 玉木 正之 (たまき まさゆき)
プロフィール
 1952年京都市生。東京大学教養学部中退。在籍中よりスポーツ、音楽、演劇、
映画に関する評論執筆活動を開始。小説も発表。『京都祇園遁走曲』はNHKでドラマ化。静岡文化芸術大学、石巻専修大学、日本福祉大学で客員教授、神奈川大学、立教大学大学院、筑波大学大学院で非常勤講師を務める。主著は『スポーツとは何か』『ベートーヴェンの交響曲』『マーラーの交響曲』(講談社現代新書)『彼らの奇蹟-傑作スポーツ・アンソロジー』『9回裏2死満塁-素晴らしき日本野球』(新潮文庫)など。2018年9月に最新刊R・ホワイティング著『ふたつのオリンピック』(KADOKAWA)を翻訳出版。TBS『ひるおび!』テレビ朝日『ワイドスクランブル』BSフジ『プライム・ニュース』フジテレビ『グッディ!』NHK『ニュース深読み』など数多くのテレビ・ラジオの番組でコメンテイターも務めるほか、毎週月曜午後5-6時ネットTV『ニューズ・オプエド』のMCを務める。2020年2月末に最新刊『今こそ「スポーツとは何か?」を考えてみよう!』(春陽堂)を出版。
公式ホームページは『Camerata de Tamaki(カメラータ・ディ・タマキ)

スポーツは民主主義社会から生まれた文化。
民主主義社会は暴力の否定から生まれた社会。
その歴史的事実を学べばスポーツ指導における暴力問題は、根絶できるはずだ。

またしても……と言うべきか。日本のスポーツ界で暴力事件が発生してしまった。メディアでも大きく報じられた九州の私立高校サッカー部での事件である。

ある30歳代のコーチが、サッカー部員の生徒に対して殴打や足蹴りなど、暴行としか言えない酷い暴力行為行い、それが映像に撮られネットで公開された。おまけにこの映像を撮って公開した11人の部員たちが「世間を騒がせた」と謝罪する映像も公開された。

その「謝罪」について、サッカー部監督は自ら進んでテレビ番組に出演し、高校生たちが自発的やったことと説明したが、じつはこの監督が部員たちに恐喝めいた言葉で謝罪を強要していた録音が発覚。それら一連の出来事に対して学校が記者会見を開き、サッカー部コーチの罷免を報告したうえ監督が謝罪。

ところがその場で、「暴力行為は見たことがない」と語った監督に対してサッカー部のOBたちが、監督自身が暴力をふるっていたことを暴露。長時間の正座の強要や顔面への殴打など、酷い暴行を高校生に何度も加えていたことをテレビのインタヴューで証言し、監督も退職することになったのだった。

監督の自己保身としか思えない虚偽発言の連続には、唖然とするほかない。が、日本のスポーツの指導では、何故こうも暴力事件が続き、なくならないのだろうか?

学校の体育やスポーツの指導者による暴力の起源を調べてみると、それは戦前の軍事教練にルーツを求めることができそうだ。

昭和の初期から中学校の体育の授業は陸軍の教育士官が指導者となり、「体育教練(体練)」と呼ばれるようになった。そして走ったり跳んだり、ボールを投げ合ったり蹴り合ったりしていた授業は、柔道剣道などの武道や、木銃を持っての分列行進などが中心となり、教育士官は、生徒を指導するのではなく命令で動し、命令通りに動けない生徒には「気合いを入れる」ようになったという。

戦後になって、戦地から復員してきた若い兵隊の多くが(就職しやすい職業として)体育教師となり、軍隊で行われていたような「ビンタ(平手打ち)」や、竹刀を使っての「気力注入」を行うようになった。その頃から、体育教師や運動部の指導者による暴力行為が常態化するようになったという。

1964年の東京オリンピックのあとは、女子バレーボールで金メダルを獲得し「鬼の大松」と呼ばれた大松博文監督や、金メダルを量産したレスリングの八田一郎監督の「根性論」が誤解され(彼らが指導者として暴力をふるったことはなく、その指導は科学的だった)、さらに漫画『巨人の星』の流行から「非科学的な根性論」がもてはやされるようにもなり、暴力を伴う指導が「愛の鞭」や「シゴキ」、相撲部屋の「可愛がり」といった言葉とともに容認されるようになったのだった。

じっさい私も、長いスポーツ取材の経験のなかで、指導者の暴力行為としか思えない酷い暴行現場に遭遇したことが何度もある。甲子園大会への出場が何度もあり、高校野球界の「名将」と呼ばれていた監督が、グローヴを外させた高校生に向かって至近距離から硬球を投げつけ、何度も身体にぶつけるのを見たり、平手や拳で高校生の顔面を殴りつける監督も何人も見た。エラーをした選手に「尻バット!」と叫んでバットで尻を殴打する監督もいたし、スポーツ名門校と呼ばれる高校の朝礼で、女子生徒の尻を竹刀で叩いたり、顔にビンタを浴びせる教師を見たこともあった。

それらの行為を告発できなかった小生も情けないが、その時はスポーツ大会を主催している新聞社の記者も常に同席しており、それらは「普通の行為」だと思ったものだった。

そういう「酷い誤解」が蔓延していたのも事実で、今からちょうど10年前大阪の公立高校バスケットボール部で、監督の暴力行為からキャプテンの生徒が自殺する事件が起きた時も、テレビのワイドショー番組で次のような発言をする「有識者」が何人もいた。
「1発や2発くらいで気合いを入れるならイイけど、5発も6発もとなるといけませんよ」
「要は愛情があるかどうかの問題ですよ。愛情があれば、殴られる生徒もその意味がわかるから、暴力にはなりません」

その頃には小生もスポーツの知識を十分身に付け、スポーツにおいてはどんな暴力も絶対に許されない、と確信するようになっていた。

スポーツでの暴力が絶対に許されないのは、スポーツが暴力を否定する文化=民主主義社会のなかから生まれたから、なのだ。

民主主義社会とは、支配者の権力闘争に暴力(戦争)を用いることを否定し、選挙や話し合いや多数決(議会)で指導者を選び、物事を決める社会のことだ。そういう平和な社会になると暴力は不必要になり、殴り合いや掴み合いや戦利品の奪い合いといった暴力行為も否定され、ボクシングやレスリングやフットボールのようなゲームに代わる。だからスポーツは、いち早く民主主義社会を作りあげた古代ギリシャと近代イギリスで多くが生み出されたのだ。

スポーツの場で暴力行為を用いることはスポーツそのものを否定することになるのだ。そのようなスポーツの「絶対平和主義の原理」を知らないまま、ただ「暴力はイケナイ」と主張するだけでは、「力による強圧的(軍隊的)な指導」や「思わずやってしまう暴力的指導」は跡を絶たないだろう。

暴力行為が発覚したコーチや監督は、既に馘首されたという。それによって「責任を取らされた」ことになるのかもしれないが、日本のスポーツ界にとって重要なのは「処分」ではなく「更生」だろう。スポーツの場で暴力をふるうことが何故許されないのか、ということを、暴力をふるった当人に学ばせること、そしてすべてのスポーツの指導者にも学ばせること、さらにすべての日本人が学ぶことこそ重要なこととのはずだが……。

 


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(Up&Coming '22 盛夏号掲載)

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